2月22日は竹島の日。竹島とは?


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昨日、22日はこのブログのネタ的に何かいろいろ被っておりましたが
島根県が制定した竹島の日でもあったようです。


韓国との領土問題で、揉めに揉めているのが
竹島ですが、改めて
この竹島を巡る問題を調べてみたいと思います。


まず、なぜ2月22日が竹島の日なのか?


竹島の日自体が制定されたのは、2005年と比較的新しいのですが
2005年2月22日で、その丁度100年前の1905年の2月22日に
島根県知事が竹島の所属所管を明らかにする告示を行った日だからだそうです。


そして、竹島の日が制定されたのは
当時(今現在も続いていますが)の、日本での反韓感情などに
ある程度配慮したもので作られたものであると思われます。


領土問題は、各国の支配地域を広げるために
どうしても、デリケートな内容になってしまうものであり
日本でも、尖閣諸島問題や北方領土問題は現在も未解決状態です。


領土の拡大によって、国民の利益になることも多々あるので安易な譲歩はしてほしくはないですが
問題に武力の影がちらついてくると、場合によっては一触即発の事態になりかねないので
慎重にやってほしいものではあります。


竹島の日の制定は、当の日本よりも
韓国での反響がやはり大きかったようで
元々韓国人が持つ反日感情に、更に火に油と言った状況になっています。


元々、竹島はまず鬱陵島という韓国が支配していた島の
中継地点であったという歴史があります。


鬱陵島は、韓国の支配下に西暦512年からありましたが
李氏朝鮮の時代に無人島政策を施された(1438年から1881年)島でありました。


無人島政策をされた理由は大きく2つあり
国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと
対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であったとのこと。


17世紀に、海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が
航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着。
新島を発見したと考えた大谷は、その後、江戸幕府に鬱陵島への渡航許可を得ることになります。


鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになり
現在の、竹島と呼ばれている島は松島
呼ばれるようになりました。


鬱陵島は、その後大谷と、その同志・村川市兵衛によって
78年間運営され、アシカ漁やアワビの採取、木材の伐採などを行った
という記録が残っています。


その鬱陵島に渡る際に、中継地とされたのが松島こと
現在の竹島。江戸幕府は1656年に松島への渡航許可も出しているとのこと。


こういった経緯から、竹島は1905年の2月22日に
明治政府から日本の領土として正式に編入され
国際法的にも認められる日本の領土になったのです。


しかし、その後第二次世界大戦の敗戦時に
GHQは竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外し
韓国が代わりに、李承晩(イ・スンマン)韓国初代大統領が海洋主権の宣言ライン
いわゆる「李承晩ライン」を設け、韓国が1952年から竹島周辺の水産物を得ることになったのです。


これが、竹島問題の始まりとなり、今でも続く領土問題として
日韓の外交の足かせとして、お互いの国民感情を縛っているのです。


今でも日韓両方で、国民感情に複雑な禍根を残す
竹島問題。竹島の日を作ったとしても、その問題が解決されるわけではなく
つくづく、人間のすることは愚かであると、個人的には冷ややかな目で領土問題を見ています。

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